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精神分析とユング心理学 放送授業 第九回 元型について? [放送大学]

放送大学の講義も、後半戦に入った。森さち子先生の第8回までの講義は、時間があれば、まとめるとして、とりあえず、ユング心理学に進む。

今回から大場登先生の登場となる。まず、受講生の方々は、印刷教材でコンプレックスについて学習しているものとして、「元型」について述べることにするとして、その講座は始まった。講義の進め方だけれども、科目の性質にもよるので一概には言えないが、どちらかというと「哲学」に近い性質のものは、短い時間で概略を説明するものよりも、このようにポイントをしぼって、掘り下げてもらった方がイメージとしても記憶されるので、私は好きです。

「ユング自伝」の中身について、この自伝が、いわゆる世間によくありがちな「私は、外的事実として何をしてきたか」については、ほとんど語られず、その後半で、ユングが体験した深いけれど、たぶん誤解されるであろうことは、その公開が遺族の判断にゆだねられたもので、それが「赤の書」として残されているけれども、専門家はともかく、我々素人は目にすることも出来なかった。その「赤の書」は、日本語版として翻訳されたものが、平成22年(2010年)6月に出版されたばかりで、放送大学の本部図書館には、ドイツ語版、英語版と、この日本語版が置かれているので、興味のある人は、本部図書館にて閲覧してほしいとのことである。残念ながら、定価が42,000円もするので、金持ちか、お金はないが、他に支出するものを辛抱してでも買いたいか、ともかく、悩ましい存在である。

私も、ユングに傾倒していた頃か、万馬券でも当てていたとしたら買ったかもしれない。ただ、「ユング自伝」は、読んでも分からないことが多く、難解であるため、おそらく、ユングの描いた曼陀羅図や様々なイメージを見るだけで終わってしまうかもしれない。学者は、初めて自分が講義した内容については、書物にすることが多いので、ひょっとすると、京都学習センターで、山中康裕先生により講じられた面接授業の内容が、この「赤の書」の解説本としてでてくる可能性はある。

私が、期待していると言うことは、出版社の編集者は、もっと興味を持っているはずで、私の感としては、出版されるのではないと心待ちにしている。

さて、今回の授業の内容であるが、ひとつは、自伝などに出てくるユング自身の夢を通して、元型だとか、集合的無意識というものにアプローチされている。その中のひとつが、オスカー・ワイルドの戯曲などで有名な「サロメ」である。新約聖書の中に、そこでは、サロメという固有名詞は出てこないものの、王との約束により、生首を盆にのせてもらうシーンの記述があるが、今は、もう持っていないので確認できないが、岩波文庫の「サロメ」には、印象的なイラストが載っていたと記憶している。

ユングは、夢の中ではあるけれども、その当事者であるサロメなどとも接触する。そこでの対話を通じて、そのおどろおどろしい世界を体験し、それと対決することにより、いままで、自分の中にあるとは思いたくもなかった第二の人格、つまり、コンプレックスを自我と親和的にさせていくことが語られる。

森さち子先生も、述べられていたが、フロイトが用いた「自我」という専門用語も、ユングにおいても、ドイツ語では、Ich、英語では、Iもしくはmeと書かれているという点に注目しておくべきだろう。

「自我」などというと、自分の中の意識部分で、全体の一部のようなとらえ方をしてしまいがちだが、端的に言えば、現在生きている「私」という意味だ。

たとえば、私も学生の時に、確か、ドイツの民事法の何かを原文で見たときに、日常使われている言葉で書かれているので、驚いたことがある。たとえば、買掛金と売掛金の支払および回収期限が到来したときに、その差額だけを請求してもよいというようなことが書かれているが、日本語だと「相殺適状」というような専門用語に置き換わっている。

フロイトの著書を英語に翻訳する際に、確かストレイチーにより、Ichからegoというような専門用語に置き換えられた森さち子先生もおっしゃっていたと記憶している。

ユング心理がとフロイト心理学との決定的な違いは、生物学的性理論(発達論)を認めるか認めないかの違いである。

フロイトは、ヒステリー患者や神経症患者を中心に診療に当たっていたので、現実的事実が中心課題となり、たとえば、幼児体験だとか、成長過程での人間関係のこじれ具合などに焦点が当たっているのに対し、ユングは、自己との対話の中で、ひとびとなら誰でも持っている無意識の世界に注目し、そちらに重点を置いたことで、全く異質な心理学大系となっている。

このひとが誰でも持っている無意識のことを、集合的無意識と呼んでいる。河合隼雄は、「ユング心理学入門」において、集合的無意識という言葉を普遍的無意識と置き換えている。大場先生によれば、「普遍」という言葉には、肯定的ニュアンスが含まれるので、先のサロメの夢の事例なども考慮に入れると、中立的な、つまり、よくないと思われるイメージも内包した集合的無意識という言葉のほうが、誤解を与えないのでよいとされる。

実際のところ、我々が、手元に置いてしばしば参照するアンソニー・ストーの「エッセンシャル・ユング」では、山中康裕先生の監修のもと、「集合的無意識」と訳されている。(ただし、索引には、普遍的という言葉でも引けるようになっている)

自己実現というと、何かすばらしい体験のようなイメージがあるが、実際には、「サロメ」にも出会わなければならないし、集合的無意識のうち、その時その時、もたらされるものとしか、対決していけないのが現実である。ユングを読んでいると、いろんな体験が可能な気がして、私のように年を取ると、まだまだ、やり残したことが多く感じてしまって焦燥感にも駆られるのだが、フロイト的には、対象喪失を生きること、ユング的には、必要な人が必要な範囲でしかなしえない苦痛を伴った体験であることを再度確認しておきたい。

自己実現は、ときには、現実世界でも内的世界でも、失うことものも多いし、苦痛でもあるし、ときには、悲しい体験でもあるし、誰にとっても困難なことだということは、現実世界での世俗的生活も苦痛が多い点で、よく似ている。

私の考えでは、日常生活を生きていること、そのこと自体が、ある意味での自己実現であり、また、今回の東日本大震災や原発事故という客観的な事象も、自己実現の契機になったり、自己実現そのものになると言うことだろうとおもう。

NHK「こころの時代」で放送された岩手県大船渡市の医師・山浦玄嗣さんのキリスト者としてのコトバにも心を打たれるとすれば、彼が、「誰も、神はどうしてこんな目に遭わせるのか」ということを誰も口にしなかったという言説ひとつを取り上げても、震災や原発事故に遭わなかった我々も、もう一度、内省することで、自己実現という苦しみに向かうことが出来るのだろうと思う。

今回は、まとめと言うよりも、私の感想になってしまったが、先生が提示されたヒントをもとに、より深い理解と、日常生活を送っていきたいものだと思った次第である。

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