毎年発売になる九星術などが記された暦が変わってしまった [占い・占星術・易教]
秋になると、高島易断と銘打った来年の暦が書店に並ぶが、一白水星・二黒土星といった九星気学の本命星別の暦(文庫サイズ)の多くから、暦の暦たる要素であるその日ごとの干支が消えてしまっている。単なる言葉を羅列した占い本になってしまったのは寂しい限りである。
iPhoneなどのスマートフォンには、暦のアプリがあるので困ることはないが、何かの日取りを決めたりするとき、一覧性があった方が便利である。
たぶん、占い師だと、専門の暦がついた手帳や暦を買うのだろうし、一般の人で、干支だとか九星だとかいった記号に興味を持ったり、あるいは必要とする人がいなくなったのかもしれない。
実際、私自身も、自分のことについても、ましてや、開業の日取りや祝い事の日取りなどを決めたり、あるいは、先方の希望の日が都合が悪いときに変更してもらう方便としても使う場面は、ここ数年ない。
科学的常識が、いわば迷信である占いという現象の存在への問いまでも駆逐してしまったのかもしれない。
多くの人は、今日が何年の何月何日であるかについて、その朝のテレビか新聞、あるいは、スマートフォンのカレンダーなどにより知るようになっている。
もし、それらの情報が何もなくなってしまったとき、まあ、たとえば海難事故などで無人島に漂着したときに、何もかも失っていたとすると、今現在が何年の何月何日であるかを永続的に知ることは困難になるであろう。
月を観察しておれば、太陰暦を応用して、だいたいの日にちを割り出せるかもしれないが、四季のない南方の島などでは、小石を並べることでカレンダーを作っていったとしても、そのうち分からなくなるはずだ。
天体観測の経験があれば、星座から目星をつけられるかもしれないが、生きるのに精一杯だと、その島で何年暮らしたのかも不確かになるかもしれない。
我々は、法治国家という制度で生きているので、今日が何月何日であるかも重要になるが、無人島で暮らすのなら、太陽昇ったら食料を調達し、日が沈んだら眠るという繰り返しで十分やっていける。
ロビンソン・クルーソーが、カレンダーを必要として、自分で印をつけていったのは、アイデンティティーを保つ上で必要であったのかもしれないけれど、一生をそこで暮らす覚悟を決めておれば、あまり必要な作業でもなかったであろう。