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質問したら先生から返事が返ってきた #ouj #放送大学 [放送大学]

放送大学のサイトから、長文の質問をしたところ、文字化けした確認メールが来たので、再度送信したが、文字化けしたままだった。

その時点で、入力した文章も消えたし、本部事務局より再度書いて送るようにメールが来たが、人間は、そうそう同じ文章は書けないものである。なので、そのままになっていたため、よもや、文字化けしたところを推測して返事が来るとは思っていなかった。

それにもかかわらず、昨日、先生から返事を頂戴した。

たいへん、嬉しかった。

問題は、解決したわけではないが、ヒントがもらえたことで、俄然やる気が出て来た。

私は、理系だとか文系だとか分けるのは好きではないのだが、文系、特に哲学、教育学や深層心理学などは、学ぶ主体、つまり、私の思想的背景などが反映されるために、物理や数学のように明確な答えが出来ない必然を抱えているといえる。

まだまだ、卒業論文のテーマは、決まっていないのだが、一歩進んだ感じがする。

受講生のみなさんも、将来の研究テーマの糸口を見つけるためでもよいので、分からないところは、先生に質問されると良いと思われる。

精神分析とユング心理学についても、質問してみようと思った。

「精神分析とユング心理学」を通して学んだこと #ouj #放送大学 [放送大学]

私も、税理士として長年仕事をしてきましたが、「税理士として生きることとは?」とか「税理士の本質とは?」という疑問が、いつも片隅にありました。

最初から税理士を志していたわけではなく、出身学部も法学部だったので、5回生の時、経理専門学校で簿記を習うことから会計や税務の世界に入ったわけです。そうなった最大の理由は、父が、長年税務官吏をし、私が小学校高学年の頃に税理士を開業した影響です。

私は、いわゆるラジオ少年であったことから、本当は、電子工学であるとか、無線工学だとかいったものにあこがれがありましたが、父は、長男である私を弁護士か、高級官僚にしたかったようで、しかも、乾電池になぜ+と-があるのかも分からなかったので、いわゆる技術者を低く見ていた(分からないものは、マイナスの印象を持つものですが)ことや、持ち家がなかったので、自分の家を建てることや接待などで飲み歩く時期があったもので、また、私の個人的な理由もあって、理系には進めなかったこと悔やまれます。ニーチェ的に言うと、一種のルサンチマンを抱えて、中学二年生ぐらいから過ごしてきました。

なかなか、若い頃に染みついた感覚は消えないようで、弁護士だとか、会計士だとか、同業の税理士などには、冷めた感じがあるのですが、技術系の人に会うと、いまでも劣等感のようなものがあるのが分かります。

弟は、5歳離れていて、大学を受けるときには、父も自宅を完成させていましたし、次男と言うこともあって、自由にさせいたような感じがします。

大学には入ったものの、法律の勉強より、ルソーであるとか、禅宗の座禅や空海の密教、ヨーガなどに関心が深まりました。ルソーに関しては、「人間不平等起源論」を読んでから好きになり、たとえば、現代の若い人だと、曹洞宗の禅僧で論客の南直哉に興味が惹かれるのではないかと思われるのですが、感覚としては、そのようなあこがれがありました。

南直哉が、宮崎哲弥であろう人物と対談したのをフィクションにした対談がでていますが、宮崎哲弥とおぼしきインタビュアーが、性欲について直裁に質問していますが、日曜座禅会などに通っても、この禅師を師匠にしたいというような具体的なものもない上に、エッチができない生活はとうてい耐えられないだろうと思われて、禅から去りました。

実際には、お金がなかったし、当時の法学部には、女学生などほとんどいなかったし、他学部・他大学の女子学生に、そんなに多くないけれどアプローチしたりもしたものの結果が出ずじまいで、語学クラスの中には、同棲している学生もいて、そういう愛欲を満たす学生生活というのも夢のまた夢で終わってしまいました。

やはり、何かで劣等感を持っていると、恋愛面でも不利です。

たとえば、私が希望した西洋思想系のゼミに入れなくて、法哲学を選んだものの、先生との相性との問題もあって、やりがいのないゼミを過ごしました。

ユースホステルをつかって旅行していた際に、京大の学生と出会い、その方から、心理療法の主流は、ロージャリアンあんではなく、ユング心理学の河合隼雄だということを聞いたのが、大学1回生の夏のことでした。旅行から帰ると、すぐに書店に走り、河合隼雄「ユング心理学入門」を買い求めました。それまでは、フロイト側からの視点でしか、精神分析が紹介されていなかったので、ユングというと、アドラーとともにフロイトを裏切ったやつというイメージだったのが、180度変わってしまった感動を今でも思い起こします。

実際に仕事をはじめと、時間も取れなくなったのですが、幸い大阪に引っ越したので、朝日カルチャーセンターで、主として山中康裕先生から、ユングに関係することがらを学びました。

山中先生も、途中より、あるいは最初から独自の立場を築いておられますが、私がよく読んだ書物は、河合先生のものだったので、今回の大場登先生のユング心理学講義は、とくにペルソナ論において顕著ですが、昔話の解釈を巡っての新しい理解が示されていて、視野が広がるとともに、複雑で理解しにくかったペルソナとぜーレの問題が、土居健郎の「表と裏」理論の再解釈により整理されていたりで、新鮮な気持ちにさせられました。

ただ、大場先生も繰り返し述べられてますように、ユング心理学は、心理臨床学なので、基本的には、クライエントの悩みに寄り添うための理論であったり技法であったりします。つまりは、経験主義的アプローチが本命で、臨床経験なしには、なかなか理解不可能な部分がある学問であるのも事実なのだろうと思います。

また、学問の性質上、主観的な部分が内在するため、いわゆる「科学哲学(英米哲学)」の枠組みでは議論し得ず、ハイデッガーであるとか、森有正であるとか、そういった人生哲学に親和性があるので、客観性は、経験により担保されるという特性があります。

まあ、いろんなことを知っているという点では、若いカウンセラーに負けないかもしれませんが、本来の意味でのカウンセリングマイドについては、とうてい及ばないだろうといえることです。

卒論を書くに当たって、どういうテーマで、論文のビジョン・専門性・研究のオリジナリティーとプレゼンテーションをどうするかについて、ゆっくりと考えていく必要があるでしょう。

それと、中高年が、精神分析やユング心理学を学ぶ意義も考えていく必要があるかもしれません。若い人には、ぜひがんばってもらって、悩める人たちの相談相手となる技法を身につけて活躍していもらいたいと願ってやみません。



ファラデーとC.Gユング「赤の書」 #ouj #放送大学 [放送大学]

ユングの「赤の書」は、わたしが若い頃から、その存在が知られていながら、50年以上封印され出版されなかった書物である。最近、ユングの自伝に関して、ずいぶんユングの秘書などにより事実がねじ曲げられているとかいうことを論証する書物が日本語に訳され発売された。なので、自伝に含まれるはずであった「赤の書」も、その封印の意味については今後検討されるかもしれない。

さて、「理解」と「魅力」は必ずしも一致しないのは、妻あるいは恋人のことを考えると思い当たる人も多いかもしれない。ひじょうに魅力的なものというのは、未知なものが多く含まれていることが多いし、魅力されるという情念に惹きつけられて結婚してから、よく理解できないことがあったり、理性的に検討すべき課題があったと気づくのも結婚してからのことであろう。

ただ、この魅力が主要因となった結婚においては、その後、理解し合う努力が求められるし、逆に、よく理解し合って結婚したカップルだと、お互いの魅力を探っていく努力がないと新しい発見がなくて寂しいものになろう。

わたしは、時代的・社会的・個人的制約があって、理系には進めなかったのだが、相変わらず、機械には魅力を感じる。本当は、アンドロイド(人形型ロボット)と結婚してもよかったと思っているくらいである。(笑)

ところで、ファラデーの伝記というか、生涯の断片が、「電磁気学」や物理学もしくは科学史の枠組みのなかで取り上げられることがあったし、たとえば、子供の時やもう少し大人になってからも「子供の科学」や「科学朝日」などで読んだ記憶がある。発明王エジソンの物語がそうであるように、「がんばれば、すごい発見や発明が可能かもしれませんよ」という示唆であった。

でも、長年、日経新聞のコラム「私の履歴書」を読んでくると、「運も実力のうち」と言われるのも首肯しうるようになった。

たとえば、ファラデーにスケッチの才能がなかったら、デービーの助手になれなかったかもしれない。

そうそう、ファラデーには、もうひとつ逸話があって、100年間ぐらい明らかにされなかった遺稿があって、その中に、
「私は次ぎの結論に達した。つまり、磁気作用の伝播には、明らかに極めてわずかと分かる時間が要求される。私はまた、電気誘導も全く同じようにして伝わると考えている。・・・」
と書かれており、マクスウェルも、ファラデーのその「予想が正しかった」と認めている。

なぜ、封印されることになったかについては、よく覚えていないのだけれど、ユングの「赤の書」で、思い出した。



試験終了 反省と課題と要望 #ouj #放送大学 [放送大学]

昨日、「精神分析とユング心理学」の試験があった。なかなか、仕事をしながらだと、今のように情報機器が発達していても、時間の制約が厳しくのしかかるので、若いときに行っていたような勉強の仕方では、かなり無理があることがわかった。

今回は、他の科目の過去問が、10問であるケースが多いという情報をインターネットから入手していたので、10問を予想していたが、実際には、15問出題された。

まず、反省点としてあげなければならないのは、精神分析やユング心理学についての本も読んでいたが、時間の経過に従ってその内容も変化するという当然のことを甘く見すぎたことであろう。精神分析だと恥ずかしながらスターンという名前は、この講義で初めて聞いた。

具体的には、第三問目で、まず、つまづいた。例によって、「不適切なもの」を選ばせる問題だが、いずれも正しいように思えた。意外だったのは、「ウィニコットは、・・・・・境界例等の・・・」という選択肢があったことだ。ウィニコットについては、印刷教材の索引を見ても記載されていないように、放送授業で名前の挙がった学者である。

この設問は、論点としてはマーラーの学説「分離-固体化論」に関連した問いであろうと思われた。しかし、ウィニコットの名前は知っていても、力動的な児童精神医学の文脈で出てくる名前という程度だし、ウィニコットの理論が何なのかとかもかわからなかった。

ただ、精神分析を学ばれておられる神田橋條治先生が訳されたM.リトル「ウィニコットの精神分析の記録」は、かつて、書店で見てほしいと思った書物である。境界例というと、マスターソンの名前が思いつくこともあって、
結果的には、たぶん、境界例とは結びつかないのではないか思って、その選択肢を正解とした。

第3問目でずいぶん時間を取られた。ひとつの教訓として、印刷教材にでてきた学者の名前や現象等の名前は、はっきり記憶しておくか、印刷教材メインなら、そちらに出てこなかった名前や事象名は、ポイントになりそうだと言うことである。

このように印刷教材で書かれていることと放送授業でしか話されないことが合体して作問されている問題が他にも多く見られた。

わたしは、大場登先生が、最初の方の授業で、放送授業からも出題しますと言われたときに、主に自動車の中で放送授業を聞くので、ちょっとノートを取るのが難しいなあと感じたし、このラスト一週間で聞き直したときにメモをしたけれど、ほとんど睡眠学習になってしまったことが反省点である。森さち子先生は、そういう余談めいたことも話されなかったので、精神分析については、印刷教材のみに絞ったことが油断であったと思われる。

今は、CS放送をDVDにダビングして聞いているが、BS放送になった場合、私のカーナビはワンセグしか受信できないのと、フルセグのダビングDVDは再生できないので、どうしたものか対応を考えている。

いちばんよいのは、今は、サイトのストリーミング放送をダウンロードできないが、ぜひラジオだけでもMP3でダウンロードできる対応を求めたい。



「精神分析とユング心理学」の感想 #ouj #放送大学 [放送大学]

これは、大場登先生の講義を主とした感想というかまとめなのだが、ユング心理学とは、およそ次のようなタイプの学問なのだろうと思われる。

ユング心理学は、心理臨床学*1である。

心理臨床学を講ずるのは、心理臨床家である。

心理臨床家は、人の悩みを聞き、悩める人に寄り添うことを仕事としている。

悩みというものは、集合的性質*2を持つ。

それゆえに、ユング心理学は、ひとつの構造をもった学問であるが、
きわめて柔らかい構造であり、変化していくものである。

かつては、宗教家が果たした役割を今日的状況に対応させたものと考えられるかもしれない。

たとえば、宗教学というのは、宗教そのものを扱うので、その研究者が宗教家である場合が多いし、宗教が実践的なものだとすれば、宗教の実践なくして、研究が成り立たないだろうことは、容易に想像されよう。

いろいろと工夫をしなければならないところは、工学的でもあるのだが、残念なことに、人間そのものが対象なので、ほぼ実験を行うことが出来ない。

では、この学問を自分自身に生かしていく道はあるのかというと、それはあるのだろうと思う。ただ、日常の中では、なかなか難しいように感じている。

*1 臨床心理学というのは、心理学の一分野のことを指し、心理臨床学とは、心理臨床を行っていくための研究全般を指す

*2 集合的性質というのは、一人一人の悩みを考えていくと、全人類が共有する・しうる悩みがあるというように、集団的なもの、人に共通するもの、社会に関係するものといった性質と理解してもよいであろう。

「精神分析とユング心理学」について #ouj #放送大学 [放送大学]

 この一週間が終われば、無線工学等に取りかかれるとの一念で、耐える学習継続中。

順不同であるが、大場登先生が、私のペルソナ論に関心のある向きは、この本を読んでみて下さいとおっしゃっていたのが、写真にある書物である。先週末に届いたので、今、読んでいるところである。

学位請求論文がもとになっているが、読みやすい。第5章が結論部分と提言になっており、まず、この章を読んでおけば、鬼に金棒である。

1.ペルソナは、(中略)元型のひとつと考えられる
2.ペルソナは「仮面」「顔・面」(中略)「○・○・シャッター」といった実に様々なイメージとして現れ、(中略)、具体的なそれぞれの現れ方を通して、ペルソナが持つ豊かな諸側面を表現している。(後略)
3.ペルソナは、(中略)・集合意識からの要請との折り合いとして成立するものであるが、(後略)
4.ここの文章は長いが、私が一部要約すると、・・・折り合い」という場合の「個」は、閉ざされた「自我」のことでなく、ペルソナは、うちとそとに通じ合っており、生き生きとしたものであるということが書かれている。
5.ペルソナは個と外界・周囲・社会・集合意識との間に成立する「境界『面』」として理解されるものである。

以下、8まで項目がある。ざっと目を通したところ、大変興味深い。時間があれば、また、まとめてみたいが、今、第10章なので、とりあえず、先に進まねばならない。perusona.jpg


期末試験の初体験。鉛筆に泣かされる。 #ouj #放送大学 [放送大学]

 勉強というか学問に関する試験を受けるのは、30数年ぶりぐらいである上に、鉛筆で文字を書くのも、それより空白期間があいていたのだが、小学校の時は、鉛筆を使っていたのだからとぶっつけ本番で望んだ。思えばシャープペンシルに慣れ親しんだ時期からも同じぐらいの年月を経ていることになる。仕事で文章を書くときは、東芝ルポ発売以来、ワープロで書くことが増え、「MS-DOS版一太郎」が出てきた頃には、ほぼパソコンに依存してきた。

 「生涯学習と自己実現」の試験は、論述式であった。問題文は、8/5まで公表されないらしいので伏せるが、○○と××について、次のキーワードを3個以上含む問題が出題されるはずであった。予想とは違ったが、それはそれでよしとしよう。

 書き始めたのだが、鉛筆が手になじまない。そういえば、小学校の時、鉛筆の持ち方を習ったよなとか思いつつ、書き始めたのだが、書きたい言葉に、漢字が追いつかない。

 たとえば、「それは、○○に帰趨する」という論文調の言葉がわき出てくるのだが、「帰趨」の「趨」の字が書けない。「帰着」でもよいのだが、租税論などを専門にしていると、「租税の転嫁ないし帰着問題」というのがあって、「帰着」という言葉をこういう風に使うには違和感があった。

 「両者に介在する問題は、...」と書こうと思って、「かいざい」が「介在」で合っているかどうか不安になったりするなど、夏目漱石「門」の書き出しにある「近江の近」のことが頭をかすめたりした。

 結局、最後に目を通すと、文字が次第に太くなっていって、鉛筆を変えたところから細くなったり、慌てるものだから小学生の作文よりも不出来な感じで、情けなくなった。

 今週の土曜日は、択一式だが、過去の例を見ると、わずか10問しか出ないようだ。昨夜から、録音したものを聞き返しているが、内容が十分には理解できていないのか、話し言葉手あるせいなのか、予想問題がなかなか見えてこない。これから、帰って勉強だ。

放送大学 期末試験で用いる鉛筆はHBが指定されています。#ouj [放送大学]

明日から試験が始まるので、受験票を読んでいたら、筆記具は、鉛筆のHBが指定されているのに気づきました。

アマチュア無線の試験を受けたときに使った筆箱を開けてみると、Bと2Bが入っていました。マークシートだと、Bぐらいが良いと思われるのだが、HBと書かれているので、今日中に買ってこないといけません。

大学に入学して、4ヶ月目に入りましたが、やはり通信教育というだけあって、そういう身近な情報が入ってこないものだなあと感じました。

一応、ツイッターの公式ハッシュタグは、#oujのようですが、検索しても、あまり使われていないですね。今年度から、学長が、昨年度までの経済学が専門の石弘光先生から岡部洋一先生という専門が、電子工学という、さらに情報化社会の実際的応用に近い先生になられたので、今後が期待されます。

石先生は、財政学、とりわけ租税論に詳しい先生なので、書物も何冊か持っています。60年代、70年代には、マルクス経済学も幅をきかせていたので、いわゆる近代経済学の枠組みでの経済学を大学でも学ばなかった人もおられるかと思いますが、後者は、数学や物理に親和性があります。

最近の格差社会が顕在化する中で、マルクス経済学が持つ意味は見直されてもおりますが、この体系は、なかなか数式化になじまないというか、難しいです。

また、たいていの経済学者、とりわけ公共経済などだと、経済合理性などといった経済性の観点が身に染みついているので、有限な資源(たとえば、放送大学が得る収益)を、いかに最大の効用(たとえば、放送大学の財源を放送設備に重点的にあてるのか、それとも、YouTubeやニコニコ動画のようなタイプのネットへ振り分けるのか)に注意が行くものです。

デジタルデバイドの問題がありますから、すぐには難しいでしょうが、せっかくあるリソース、たとえばインターネットをもっと活用すれば、受講生同士の交流だとか、講座を主催する教授が掲示板を運営するとか、様々な相互交流の場がもてるはずです。

また、地デジ時代にあって専門の放送設備を持たねばならないかについては、法制度の改正などを含め、大いに議論される余地があるでしょう。


放送大学「精神分析とユング心理学」試験対策 #ouj [放送大学]

大学の試験というのは、論述式かレポートしか経験していなかったので、択一式には、参った。印刷教材でも、放送授業でも述べられていることだが、たぶん、通信指導や自主学習のような問題がだされるのだろう。

たとえば、次のような感じだ。

問1 次の選択肢の中から不適切と思われるものはどれか。

1.土居健郎が「表と裏」で表現しようとしたのは、ユング心理学でいうところの「ペルソナとゼーレ・ソウル」とパラレルな関係にあるといえる。
2.土居健郎は、「表と裏」論で、「裏」に対応する欧米語はないとしているが、それは「Back」といえるかもしれない。
3.河合隼雄は、ユング心理学を日本に導入するに際し、単なる翻訳でなく日本人の心理臨床に合うように理論を組み立てたため、「ペルソナとゼーレ・ソウル」という関係軸を「ペルソナとアニマ・アニムス」という構図で説明している。
4.昔話にある「姥皮」は、女性のペルソナの問題を取り扱っていると理解でき、そこからペルソナは一種の仮面に過ぎないといえるだろう。
5.フロイトも、自著の中で「ゼーレ」という言葉を使っており、また、ユングもゼーレを英語での著作においてアニマとするなど不思議な混乱が見られるといえよう。

そもそも、ユング心理学はクリアカットな学問でないことは覚悟していたが、学習するとなると、そうとう大変だと思われる。しかも、それは、比較の問題であって、幾分、システマチックに見える精神分析学も、電流がこちらから向こうに流れたら右向きの磁界が生じるというような覚えやすいものでないことは、これをお読み頂いた方には理解して頂けるのではないかと思われる。

放送大学の試験日が迫る #ouj [放送大学]

大学というのは、本来研究機関のはずなのに、学習が中心である。生涯学習は、新しいことを覚えたり、それに関する練習を行うようなことが中心である。
研究をしてみたい人のために、放送大学大学院が作られており、物足りない人の不満にも手が打たれている。
通学制の大学と違うところは、疑問点がすぐに解消出来ないといった不便がある点がひとつある。つまり、先生と学生は、現代のようにIT環境にありながら、共通の場にいないため、たとえば、メールで質問とかも出来ないし、掲示板の運用も限られている。相互交流も、学習センター単位だし、現代社会で働く我々からすると、戦前戦後の貧しい時代の通信教育の時代とあまり変わっていないことに不満を覚えるのではないだろうか?
しかし、最近届いた学校通信のような小冊子に、ネットのシステムは、岡部学長が主導して作られたものだと書かれていたことだ。どうも最近出来たものらしい。前学長の石氏が、他国と比べて、IT技術を活用で来ていない日本の現状を批判し、特に本学の教学面での問題に関連して、さまざまな利権の問題を示唆されていたが、このような古い体制に対しては、学生の自治会が必要であろうと思った。自由と民主主義国にある我々なら、たとえば、Twitterなどをツールとして自治会も立ち上げやすい環境にあるはずだ。ただ、若い人は、政治意識が行動に結びつきにくいだろうし、我々中高年には、70年代の悪しき記憶や新しいメディアに馴染みにくいという制約や意欲の問題もあって、現代日本の縮図がここにもあるように見える。

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