精神分析とユング心理学 放送授業 第二回 [放送大学]
印刷教材の第二章は、「精神分析のなりたち」である。
まず、先生である森さち子准教授は、1990年頃に、小此木敬吾から「精神分析」を習ったと前置きして話し始める。
精神分析やユング心理学(分析心理学)を、いわゆる宗教と同じようにみる私の立場に異論は多々あろうが、たとえば、浄土宗と浄土真宗は、阿弥陀如来を拝む点においては似ているが、やや違っているし、大きく見れば、浄土宗も浄土真宗も臨済宗も曹洞宗も法相宗も天台宗も真言宗も日蓮宗も、仏教という意味では、よく似ているし、より広く見れば、キリスト教やイスラム教やヒンズー教や仏教も同じようによく似ている。
そのような中で、誰を先生として学ぶかということは、臨済宗のどの禅師に入門するのかということとパラレルである。
印刷教材の「はじめに」において、本章は、フロイトの著作に基盤をおきながら小此木先生の本に依拠してまとめるとともに考察を行うとされている。
フロイトは、ご承知のように、友人であったフリースとの交流の中で、無意識というものに気づくのだが、「無意識」という言葉の概念は、多義的で、かなり難解である。
しかし、無意識というのは、絵画に描かれたひまわりの絵のようなものではなく、騎手が馬の手綱をさばくように
動きのあるものだといえる。そのあたりの説明を森先生は、「心の力動」という言葉で集約されている。
印刷教材では、エリザベートの症例が引かれているが、放送では、ルーシーの症例を用いて説明されている。
そして、フロイトが望んでいたのは、「心の容れものが豊かになり、どんな苦痛で堪え難いことでも、無意識の領域に追いやってしまわず、抑圧しないで、その苦痛に耐えられる心をもてること」(本書35p)であったとされている。
次に、第二節の自由連想に話が及ぶ。第一基本規則が「自由連想」で、第二基本規則が「禁欲規則」である。禁欲規則とは、行動化を禁ずるということである。
第三節では、フロイトが発見した「エディプスコンプレックス」について説明がなされる。印刷教材にないのは、古沢平作(こさわへいさく)氏が編み出した「阿闍世コンプレックス」の話である。
第四節では、臨床上、夢はどう扱われるかについて解説がなされる。とくに、夢の解釈については、個別的方法と類型的方法があるとしたうえで、現代のフロイト派は、自由連想の中のひとつに夢を位置づけていると説明される。
[コメント] 今回の授業では、無意識に関わるということは、動くものに立ち向かうということがよく分かった。よく無意識をどうするかというときに、馬に乗って、いかに馬をコントロールするかに喩えられるが、なかなか難しい問題であることが再認識させられる。
若くて優れた能力のある方には、私のように概念的理解で満足するのではなく、臨床家として育っていってもらいたいと期待している。
まず、先生である森さち子准教授は、1990年頃に、小此木敬吾から「精神分析」を習ったと前置きして話し始める。
精神分析やユング心理学(分析心理学)を、いわゆる宗教と同じようにみる私の立場に異論は多々あろうが、たとえば、浄土宗と浄土真宗は、阿弥陀如来を拝む点においては似ているが、やや違っているし、大きく見れば、浄土宗も浄土真宗も臨済宗も曹洞宗も法相宗も天台宗も真言宗も日蓮宗も、仏教という意味では、よく似ているし、より広く見れば、キリスト教やイスラム教やヒンズー教や仏教も同じようによく似ている。
そのような中で、誰を先生として学ぶかということは、臨済宗のどの禅師に入門するのかということとパラレルである。
印刷教材の「はじめに」において、本章は、フロイトの著作に基盤をおきながら小此木先生の本に依拠してまとめるとともに考察を行うとされている。
フロイトは、ご承知のように、友人であったフリースとの交流の中で、無意識というものに気づくのだが、「無意識」という言葉の概念は、多義的で、かなり難解である。
しかし、無意識というのは、絵画に描かれたひまわりの絵のようなものではなく、騎手が馬の手綱をさばくように
動きのあるものだといえる。そのあたりの説明を森先生は、「心の力動」という言葉で集約されている。
印刷教材では、エリザベートの症例が引かれているが、放送では、ルーシーの症例を用いて説明されている。
そして、フロイトが望んでいたのは、「心の容れものが豊かになり、どんな苦痛で堪え難いことでも、無意識の領域に追いやってしまわず、抑圧しないで、その苦痛に耐えられる心をもてること」(本書35p)であったとされている。
次に、第二節の自由連想に話が及ぶ。第一基本規則が「自由連想」で、第二基本規則が「禁欲規則」である。禁欲規則とは、行動化を禁ずるということである。
第三節では、フロイトが発見した「エディプスコンプレックス」について説明がなされる。印刷教材にないのは、古沢平作(こさわへいさく)氏が編み出した「阿闍世コンプレックス」の話である。
第四節では、臨床上、夢はどう扱われるかについて解説がなされる。とくに、夢の解釈については、個別的方法と類型的方法があるとしたうえで、現代のフロイト派は、自由連想の中のひとつに夢を位置づけていると説明される。
[コメント] 今回の授業では、無意識に関わるということは、動くものに立ち向かうということがよく分かった。よく無意識をどうするかというときに、馬に乗って、いかに馬をコントロールするかに喩えられるが、なかなか難しい問題であることが再認識させられる。
若くて優れた能力のある方には、私のように概念的理解で満足するのではなく、臨床家として育っていってもらいたいと期待している。
2011-04-05 18:37
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